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2009年9月

2009年9月18日 (金)

高遠菜穂子さん講演「命に国境はない~イラクで非暴力は実現するか?~」

Cimg0900 5年間私は、イラクで武力に対して武力では、この状況は終わらないと言ってきた。「ナオコは、日本に居られるからそんなことが言えるんだ。ここでは、空からも陸からも攻撃がやってくる。こんな状況で、武器を持たないなんて出来るわけがないだろ」。ナオコは平和ボケしてるんだと言われた。話しをしていても、イラク人の気持ちを変えることは出来ない。実践していかなければ変えられない。こうして、イラクホープネットワークを立ち上げた。レジスタンスに対し、学校の再建工事を一緒に行う、プロジェクトを行った。武器ではなくスコップを。破壊された学校を建て直しながら、レジスタンスの心の再建を狙った。再建は、日本から集められたカンパで行われた。一緒に働いてくれたレジスタンスには給料を払った。プロジェクトチームの一人、カーシムさんは、レジスタンスに報復活動に参加しないよう、レジスタンスに呼びかけてまわった。カーシムさんを知っている者たちからは、始めは頭がおかしくなったんじゃないかと言われていたが。カーシムさんは、レジスタンスの男の子と出会った。そのときには、再建工事はほとんど無く、工事が始まるときに呼ぶからと男の子に言った。その後、その男の子の姿が見えなくなり、住人からその子がアルカイダのメンバーに入ったことを知らされた。カーシムさんは、どんなに小さな仕事でも彼に与えていたら、彼はアルカイダを選ばなかっただろうにと、その時のことを悔やんだ。

07年後半、町から米軍が消えて行った。病院に行けなかったのが、行けるようになった。それまで、病院に行くまでに米軍の検問を通らなければならず、病院に着くまでに死んでしまったり、妊婦は病院に着くまでに産み落としてしまったりしていた。設備や薬は十分にはそろっていないが、まずは病院に行けるようになったことは重要だ。

私は、04年にレジスタンスに拘束され、日本に帰ってから5年間、イラクへは行けなかった。常にメールで情報をもらい、やり取りを行ってきた。094月にイラクへ行き、自分が行ってきたプロジェクトが生きている、住人に利用されていることが確認できた。遠隔操作でいけると思った。プロジェクトの最終目標は、地元の人たちが自立をして再建することだ。そのためには、自分達が居ないことによって、自分達で考え、立ち直っていけると思った。イラクへ行ったとき、イラクに置き去りにしてきた命が自分に戻ってくるのを感じた。04年はやっと過去になった。イラクでの出来事を報告することは、私にとってはお葬式で、今私の周りには、亡くなったイラク人がいて、一緒に報告をしている。

イラクで、非暴力は実現するか?実現させなければいけない。イラクに行けなくても、支援は出来る。ずっと、イラクへの関心を持ち続けることだ。

2009年9月15日 (火)

高遠菜穂子さん講演「命に国境はない~イラクで非暴力は実現するか?~」

05年1月日本ではこのように報道された。「民主化のステップ、初の選挙をスンニ派ボイコット」。この国民議会選挙のときは、治安が改善されておらず、そもそも投票所に行けなかった。投票箱すら設置されていない地域もあった。その中で、一部の地域では、少し治安の良い地域もあり、それらの地域では多くの住人が投票を行った。その地域にはシーア派の住人が多かった。そのため、国民議会選挙は、シーア派の圧勝となった。しかも、過激派のシーア派が実権を握ってしまった。シーア派暗殺団がイラクの警察官となり、その警察官は米軍に訓練を受けた。米軍は、検問の管理をイラクの警察官に任せた。この時から、宗派対立が勃発した。検問で、「お前は、シーアか?スンニか?」。スンニと答えると、手錠をかけられ殺された。ジャーナリストがこの事件を調べようとすると殺された。このとき、ジャーナリストは世界一ここで殺された。この状況は、イラク人も何が起きているのか訳の分からない状況だった。

イラクには、世界中からテロリストが集まってきた。イラク人の犠牲者は100万人以上だ。イラクの平和を求め、署名運動を行ったが、もう終わった話だとされ、署名は世界中で5000筆も集まらなかった。私は、悔やんだ。私は、しっかり取り組めていたのだろうか。「暴力には、たくさんの援助が入っているのに、非暴力には世界からの援助が少なすぎる」イラク人の悲痛の声だ

イラクの治安改善のため、まずは、アメリカに一緒にアルカイダを出そうと3つの条件を出し、交渉を始めた「市民の逮捕をやめろ」「空爆をやめろ」「治安維持は自分達にやらせろ」。こうして地元の警察が動き出した。住人は米軍には絶対に情報を渡さなかった。米軍に情報を渡すと、その地域丸ごと空爆されることを知っていた。住人は、地元の警察へ情報を送り、テロリストを捕まえた。

ラマディで、米軍の撤退交渉が行われた。サラームさんという人が米軍と交渉を始めた。サラームさんの自宅は、米軍が占拠していたため、玄関からの出入りができなかった。町全体が米軍基地 のようになっていた。サラームさんは、米軍の上官と話がしたいと交渉をした。すると、上官が数人の米兵を連れて、サラームさんの自宅へやってきた。サラームさんは、アラブの最高のもてなしを行った。上官は100日以上サラームさんの自宅へ通った。そして、数千人の米軍を連れて、ラマディから撤退していった。07年町から米軍が消え、劇的に治安が良くなった。子どもは学校へ行き、住人は夜でも買い物を楽しむことが出来るようになった。

高遠菜穂子さん講演「命に国境はない~イラクで非暴力は実現するか?~」

9月12日、高遠菜穂子さんが、盛岡で講演をしてくれました。

とっても貴重な報告だったので、私がメモをした全文を紹介したいと思いますが、メモと記憶からひっぱてきて書いたので、読みづらいと思いますが、ご了承ください。また、とっても長いので、何回かに分けて報告させていただきます。

Cimg0896 まず始めに、日本では、イラクに関して情報が少ないため、知らないことが多すぎるということを肝に銘じて聞いて欲しい。

2003年3月20日アメリカは、イラクへの攻撃を開始した。正規軍同士の戦闘は03年中に終了したが、米軍による、金銭や物の略奪、民家や学校、病院などの破壊、民間人の虐殺が続いた。ケガをして道路を這っているイラク人がアメリカの戦車に踏み潰された。イラク人が4人乗った乗用車が、乗用車ごと戦車に踏み潰された。意味も無く発砲され殺された

アブグレイブ刑務所での米軍によるイラク人受刑者の虐待、虐殺は、内部告発により、その実態が明るみとなった。アブグレイブ刑務所に配属になったある米兵が、虐待、虐殺を目の当りにし、こんな所には居たくないと、良心的兵器拒否を行い、配属を変えてもらった。これらの米兵の内部告発による。(死体の前でスプーンを持っている米兵の写真。死んだイラク人の脳みそをスプーンですくっている写真

イラク人の反米感情が膨れ上り、米軍に肉親を殺された家族でレジスタンスという反米抵抗勢力が結成された。ウサマ・ビン=ラディンを指導者とする武装勢力アルカイダとレジスタンスが手を組んで、米軍への反発を開始した。しかし、アルカイダは、マーケットや学校などで、自爆テロを勃発。訳の分からない言動から、レジスタンスはアルカイダと手を切っていった。レジスタンスの願いは、米軍もアルカイダも出て行け!!この、米軍とアルカイダとレジスタンスの複雑化した関係が、04年から現在までイラクで続いている。

イラクで何がおこっているのか、各国での情報はあまりにも少なすぎた。それには、それには、報道の見えない壁があった。一つは、イラク人の外国人に対する不信感の高まりだ。しかし、イラク人は、親日化揃いで、日本人だけは特別にいろんな取材を許可された。なぜか?それは、広島・長崎の悲劇のあと、世界のどこの国とも戦争をしなかった、素晴らしい国と認識されていたからだ。ジャーナリストにとって、一番警戒しなければならないのは米軍だ。米軍に捕まると、データを抹消された。報道の見えない壁のもう一つの原因だ。私は、2回米軍に捕まり、そのうち1回は4人からマシンガンを向けられ腹ばいにさせられた。04年4月、米軍がファルージャの町を包囲し、陸空から攻撃を行い、マーケット、民家を破壊し、人々を殺害していった1回目のファルージャ総攻撃だ。このとき、バグダットには多くのボランティア団体が入っており、そのボランティア団体や医療関係者は、ファルージャに入り被害者の支援をすることができた。そこから、総攻撃の実態が報道された。04年11月2回目の総攻撃が行われた。このときは、医療関係者も立ち入りを禁止され、報道は断ち切られた。隠された虐殺だ。6000名がそこで殺された

その後15万、20万と町に人が戻り始めた。その際には、一人一人米軍にIDをつくらされた。町に入ると死体だらけ。死体を土葬しようとすると、米軍に止められた。イスラム教では、死者を土葬する決まりがある。米軍は、それをさせないことで、イラク人を怒らせることを狙った。カメラの持ち込みは全面禁止だった。しかし、一人だけカメラの持ち込みが許可された。俺達を撮れ。黒い袋に詰め込まれたイラク人の死体が、戦車のフックに引っ掛けられ、ずるずると引きずられ、山積みになった死体の上に積まれた。そして米軍はこう言った「この死体をトラックに積んで、持って行ってくれ」。死体は、物凄い異臭だ。戦車に踏み潰された、頭部を撃ちぬかれた、犬に食われた、そんな死体の中に、粘着質に覆われ腐敗しない死体が多く発見された。この死体から、化学兵器が使われたと予測された。(カメラの持込を許可された人が撮った動画。鼻をおさえながら、死体をトラックから降ろしている。また、降ろされた死体の状況が映し出された)

「より多くの人に、この状況を知らせて欲しい」イラク人の願いだ。

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